吹石一恵さんのお父さんって?あの近鉄の? [スポーツ]
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吹石一恵さんって、あの強かった時の近鉄バッファローズの吹石選手ですか。
知りませんでした。
びっくりしましたね。
若い方は、当然ご存知ないですよね。
あの名将仰木監督で、日本シリーズを戦った選手ですよね。
記憶が甦ってきました。
何度も日本シリーズに、でながら一度も、日本1になれなかった、
悲運の名将と言われた仰木監督時代ですね。
日本シリーズでの、吹石選手の活躍覚えていますよ。
あまり目立つ選手ではなかったですが、記憶に残る選手でしたね。
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経歴を調べてみると
「出身は和歌山県日高郡南部川村
和歌山県立南部高等学校から社会人野球の日本新薬を経て、
1974年のドラフトで近鉄バファローズから4位で指名されプロ入り。」
背番号は25で、引退まで近鉄に在籍してこの背番号をつけていた。
内野はどのポジションでもこなせる器用さがあったが、
控えの俊足・堅守の内野手として、
内野手にアクシデントがあった時に登場することのある選手でしたね。
1980年の日本シリーズ第2戦で逆転の3ラン本塁打を放つ。
翌1981年のシーズンはレギュラーを獲得し規定打席にも到達した
(このシーズンの成績は打率.245、10本塁打、48打点、13盗塁)
1980年、1985年のシーズンも100試合以上に出場し、それぞれ12本塁打を放つ活躍をしている。
控えが多かったにもかかわらず、生涯通算1000試合超の出場を果たしている。
球史に残る10.19 この試合、勝てば日本1という、試合でしたね。
今でも、覚えています。
1988年10月19日のダブルヘッダー「10.19」では、
負傷欠場していた金村義明に代わって三塁手として出場。
第2試合の7回表には、一時勝ち越しとなる本塁打を放つなどの活躍を見せた。
このシーズン終了後に現役を引退。
引退後も近鉄にとどまり、守備走塁コーチやスカウトなどを歴任した。
1999年11月21日に大阪ドームで行われた読売ジャイアンツとのOB戦では、
始球式に娘・一恵が背番号25
のユニフォーム姿で登場。
ナインの計らいで吹石も捕手として登場(始球式には他に吉井理人と近鉄ファンの書家榊莫山も登場し、
近鉄の捕手は他に有田修三と梨田昌孝(ありなしコンビ)も一恵のボールを受けた。
1部WIKIより引用
吹石 徳一
基本情報
国籍 日本
出身地 和歌山県日高郡みなべ町
生年月日 1953年4月2日(62歳)
身長
体重 178 cm
76 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1974年 ドラフト4位
初出場 1976年4月3日
最終出場 1988年10月19日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
和歌山県立南部高等学校
日本新薬
近鉄バファローズ (1975 - 1988)
コーチ歴
近鉄バファローズ
大阪近鉄バファローズ (1989 - 1999)
日本新薬 (2014 - )
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